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反戦、そして平和。

一年に一度くらいは、戦争について考えてみてもバチはあたらないはずだ……というわけで、家族と共に、高峰秀子主演の『二十四の瞳』を観てみました。

原爆忌が母の入院日、敗戦の日がセカンドオピニオンの時期と重なっていたために記事にする機会を逸していたのですが、少しだけ書いてみようと思います。

平和が戦争の対義語ではないというのは、小林よしのりの言葉です。いや、オリジナルの発言者は別にいるかもしれないんですが、ひとまず現在の波及力という意味において、氏の名前を挙げておきましょう。

平和とは「秩序が維持されている状態」のことであり、戦争(開戦)の対義語は「外交」であります。
外交とは情報戦に勝ち抜く冷徹な知性のことであり、それをフォローする国力のことでもあります。

戦争⇔平和

もし、これが事実であるとしたならば、開戦していない状態は、のべつまくなし「平和」であるはずなのですが、ならば現在の日本が平和であるかと問うたなら、おそらく大抵の人は皮膚感覚として「平和とはいえないなぁ…」と答えるのではないでしょうか?

少なくとも、俺は現在の日本が平和だとは、到底、思えないのですよ。モラルハザードの面を含めて。

ぶっちゃけ、眠たいんで頭の中がまとまりませんが、取り留めなく問い掛けたいと思います(苦笑)

今の日本は平和ですか?

或いは、

国家という概念にこだわりたくない世界平和な人がいるとして、ならば、その世界平和なるものに貢献する道を模索するとして、「その現実に対して、国力なるものは無力なのですか?」と。

否も応もない。
所詮はパワーバランスによって成り立っているリアルな世界において、日本はそれに貢献できるだけの国力を現実的・潜在的な面において備えているはずじゃないですか。


日本は、もっと強くあっていいんですよ。


その辺りについて、家族と少しだけ話し合いました。

二十四の瞳という映画は、基本的に反戦映画です。映画を観ながら、母は涙を拭いながら、戦争はひどいといった主旨の言葉をつぶやきました。
大阪の空襲や疎開を経験し、父のように慕っていた帝国軍人の叔父を失った母ですが、なればこそ、単純な反戦平和を嫌っています。

俺は概念的には核武装論者ですらあるのですが、戦争を嫌います。しかし、いかなる状況においても戦争だけを回避すればいいといった、絵空事の言葉も嫌います。
その先にあるのは、奴隷の平和でしかないからです。

日本が世界に訴えていかなければならないのは、ラブ&ピースでもなければ、反核でもありません。

パワーバランスは原則として打倒すべきものかもしれませんが、その現実の前において、ラブ&ピースなどという言葉がなんらの力も持ちえないものであることは自明ではないかと思うのですよ。

戦争は現実におこりえる、これは日本の歴史においても忘れちゃならない。日本人が、いくら「嫌だ嫌だ」といったところで、向こうから日本を狙ってるじゃないですか。

また戦争とは武力戦争のみならず、経済戦、情報戦、ありとあらゆるパワーバランスにおいて遂行され、他ならぬ日本は、その渦中に存在します。

少なくとも、この地球上においてラブ&ピースが勝利することなどありえないんです。

俺に反核・反戦の意識があるとしたら、「もし日本が原爆による報復能力をもっていたら、広島・長崎の悲劇は行なわれていたか?」、そして「戦争は負けたほうが悪役にされる」という素朴な疑問だけです。

いや、その前提として反戦意識は勿論あるのですが、ならば奴隷の平和(←実際には平和とは程遠い無秩序だと思いますが)を望むのかと問われれば、断固として拒否します。

だけど、その究極の選択として、内側から日本を悪者にして自己正当化を計る、という選択肢があります。

これは、楽ですよ。

自分の爺ちゃんや婆ちゃんを人身御供に差し出せば、日本を狙ってる連中から頭をナデナデしてもらえるんですからね。

自己矛盾のようですが、俺はここに填まってしまった一般の人たちの多くが「優しい人たち」であることを疑っていません。
あくまでも「一般の日本人」という但し書きがつきますけどね(笑)
というか、ある意味では、共感をもっていると言っていいと思います。

だけど、そこに付け入る、さかしらな連中が日本を狙っているという現実を、どうか頭の片隅に置いていてくださいと、願わずにはいられないんです。

いや、ホントに取り留めがなくなりましたね。


たぶん、三日後ぐらいに記事を読みなおして、自分で恥ずかしくなってしまうんだろうなぁ……て思う、アルコールの入ってる野郎の戯言でした。