前回旅行記その3からの続きです。

 今回は白虎隊自刃の地である飯盛山を中心にお送りいたします。

 例によって数枚の写真を交えていますが、今回は文章がけっこう長文になっています。面倒くさがらずにお読みいただければ幸いです。


 それでは続きからどうぞ。

 飯盛山と言えば、かの白虎隊十九士が、鶴ヶ城籠城戦の煙を落城のしるしと早合点し、若い命を自刃して果てた悲劇の地として有名なわけですが、個人的な目的はと言えば「さざえ堂」だったというのが何ともはや。
 その飯盛山、参道がけっこう急勾配の石段になっていまして、向かって右側が動く参道というのか、まあ有料のエスカレーターになっていました。俺はハナから自分の足で登るつもりだったもので、気にもとめずスルーしたのですが、その窓口が御朱印を頂く場所を兼ねていたという……。
 後で気づいて御朱印を書いてもらったんですが、すでにお参りを終えたと説明すると、受付の女性に「あらあら」と意外そうな声を出されました。そんなに珍しいのかな?


 さて、最初の石段を上り、左へ折れると白虎隊記念館があります。

白虎隊記念館白虎隊士像 左が記念館の外観、右が入口脇に置かれた白虎隊士の銅像。
 その手前にも、「白虎隊士 酒井峰治 愛犬クマ 滝沢山中に出迎え」の像(長っ!)なども設置されています。

 少しばかり補足すると、飯盛山で自刃して果てた十九名は、白虎隊二番隊隊士四十四名中の十九名であって、他の隊士は山間を退いて入城を果たし、籠城戦に参加しているんですね(愛犬クマとともに銅像となった酒井峰治少年も、後年、酪農家として名を成したのだとか)。ちなみに、隊は士中隊、寄合隊、足軽隊から成り、充足数はおよそ340名程度とされています。

 思えば、彼らも他の隊士二十四名(*飯盛山で自刃した総数は二十名、飯沼貞吉(のち貞雄と改名)氏のみが一命を取り留めています)のように籠城戦に参加できてさえいれば本懐を遂げられたであろうに、このあたりにも、彼らの悲劇性があるように感じられます。


 その飯盛山、自刃の地に至る中腹にあるのが会津さざえ堂です。

さざえ堂さざえ堂と紅葉 左の写真が、さざえ堂の外観。右が紅葉を前景に添えたもの。

 手前の角柱に『旧正宗寺 円通三匝(さんそう)堂』と書かれていますが、これが通称・さざえ堂の正式な名称です。ちなみに、漢字表記で「栄螺(さざえ)堂」と書いたほうがもっと正確だと思われます。
 資料によると、「寛政8年(1796)郁堂和尚が考案建立したもので、六角3層高さ約16米、昇降別々の螺旋形通路により階段がなく一方通行で上下するという日本唯一、世界にも例のない名建築とされている」とあります。
 この堂の稀有なところというのが、回廊が二重螺旋の構造になっていて、正面入口から裏側にある出口に至るまでを一方通行のまま(つまり対向者とすれ違わずに)通り抜けられるという特殊な構造にあります。


 その新聞紹介記事(朝日新聞芸術欄、昭和47年11月20日)を拡大コピーしたものが、額に入れて入口の脇に飾られていたのでアップしておきます。クリックして写真を拡大すれば、たぶん読めるのではないかと。

さざえ堂 紹介記事の額 これがその写真。

 記事の内容をざっと要約すると、会津さざえ堂は二重らせん構造のスロープを二つ組み合わせたもので、中心部にかつては三十三の西国札所の観音像が安置されており、スロープを上り下りと一巡することで西国観音札所の巡礼を終えることができるというものであったということ。また、二重螺旋スロープを持つ塔構造は、古くはダ・ヴィンチのスケッチにまで遡るらしいということ。

 ダ・ヴィンチ云々はともかくとして、記事冒頭に「広重の絵にもある江戸のさざえ堂は有名であり〜中略〜、さざえ堂の形式には二種類あるが、塔の形をなしているのは会津若松市にただ一棟あるだけである。」というあたりが、このさざえ堂が国の重要文化財に指定されているそもそもの理由であろうかと。

 で、この形式が二種類あるというさざえ堂なのですが、江戸に存在したさざえ堂というのは、実は本所にあった黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院・黄檗山羅漢寺のことを指しています。羅漢寺は、その境内に羅漢堂(右繞三匝堂とも)という御堂を有しており、その羅漢堂を通称・さざえ堂と呼んでいたということらしい。

 黄檗宗は別名・念仏禅ともいわれますが、1644年の明朝崩壊の際に僧侶とともに明朝より逃れ渡ってきたのだとか。時の幕府は黄檗僧に三つ葵のついた法衣の使用を許可し、宇治に黄檗宗寺院の建設用地まで与えていました。
 その本所の羅漢寺が、数多存在したさざえ堂の元祖というわけですが、その羅漢寺は明治になって目黒へ移転されたものが現在も残されています。

 歌川広重はその羅漢寺を、『東都名所 五百羅漢寺さざえ堂』、そして江戸名所四十八景のうち『二十六 五百羅漢寺』として絵に残しています。というか広重どころか、有名な江戸名所図会にも詳細な絵が残されているし、二代喜多川歌麿も「浮世名所 五百羅漢寺」に、北斎先生に至っては「北斎漫画」や「富嶽百景」や「富嶽三十六景」とほとんど網羅といった感じですから、当時はかなり有名な観光名所であったのでしょうな。

曹源寺さざえ堂 で、二種類あるさざえ堂ということですが、要するに会津さざえ堂のように六角の“塔”構造を持っているもの、羅漢堂のような“堂”形式のもの、の二種類ということになります。

 参考までに、左に曹源寺さざえ堂の写真を添えておきますが、会津さざえ堂との違いは一目瞭然です。ちなみに、この写真は別サイトからの転載となっています。
 内部構造でいえば、階段や太鼓橋による立体交差など複雑な一方通行を多用した三階建ての堂形式、スロープによる二重螺旋の塔形式、ということでしょうか。
 また、現存するさざえ堂は、埼玉県児玉町にある平等山成身院、写真を添えた群馬県太田町の祥寿山曹源寺、目黒区に移築された先述の五百羅漢寺があるようです。


さざえ堂 内部 1さざえ堂 内部 2 写真では伝わりにくいかもしれませんが、左が螺旋状のスロープを撮影したもの。
 右が、その最上部の下りスロープへと交差する部分を撮影したものです。

 このスロープを、都合三周すればいつのまにか出口へ導かれているという構造になっているわけですが、これによって西国三十三観音巡礼を疑似体験するというのは、なんともコンビニエンスな感覚のように思えます。

 と同時に、どこか胎内回帰的というか、ある種の“生まれ変わり”の体験ともリンクしているのではないかと感じられます。つまり、かつてのさざえ堂を一巡することで、巡礼者は世俗の肉体を浄化し、新たな肉体へと再生される。そういう意味合いをもった宗教施設でもあったのではないかと。

 しかし、かつて三十三観音像が配置されていた場所には、会津松平家第八代藩主・松平容敬(かたたか)の編纂した「皇朝二十四孝」の絵額が掲げられ、どうにもありがたみというか信仰に伴った厳かさなどは感じられず、どこか「秘宝館」などを思わせるチープさが漂っていました。券売所のおばちゃんの口上も、いかにも見世物小屋の呼び込みという感じでしたし(笑)

 それも然りというわけですが、明治になって正宗寺は廃寺となっていますし、掲げられている皇朝二十四孝も会津藩の道徳教本として使用されていたものですから、そこに宗教色というものは皆無なんですよね。ここにもまた、明治政府の神仏分離令による弊害が見えてきます。まあ、このあたりの講釈は別の機会にでも譲ろうかと。

 いずれにせよ、何年も前に「栄螺堂」という存在を蔵書で知って以来、なんとなく頭の片隅に引っ掛かってたんですよね。ちなみに「タイモン・スクリーチ著、村上和浩/訳 『江戸の思考空間』 音土社」という書物ですが。
 これ、非常な名著で、いろんな想像力を喚起させられます。在庫がどーとか、俺は知りませんけど(笑)。あらためて、いろいろ調べてみようかと思ってます。

 さて。

さざえ堂 内部 3 これは、さざえ堂最上部の天井を撮影したもの。

 ご覧のように、千社札で作られた曼荼羅図かと思わせるような趣き。全体に、カオスとしか言いようのない感じが(笑)
 そして目に余るのが、観光客による無数の 落書き です。やめろよ、ホント。行儀の悪い。







 その、さざえ堂の傍らには、白虎隊士をお祀りした宇賀神堂がありました。

宇賀神堂白虎隊19士像 宇賀ってなあに?

 なんて思ったんですが、立札には、「この堂は寛文年中(1661〜1672)に建立され三代藩主松平正容(まさかた)公が弁天像とともに、五穀の神、宇賀神をも奉祀された。堂には、飯盛山で自刃した白虎隊19士の霊像が安置してあり〜後略」とあります。
 要するに、本来は五穀豊穣をお祈りする場所であったということでしょう。それが明治になって、白虎隊の像をお祈りする場所になってしまったと。

 で、右の写真が、明治23年の墳墓改修の際に製作されたという白虎隊19士の像。やっぱり、どこかチープですね……。


 で、飯盛山をさらに昇った先にあるのが、白虎隊の墳墓というわけです。

白虎隊士 墓地飯盛山 狛犬2 写真左が、白虎隊士の墓地。
 これまでの秘宝館的印象とは違い、やっぱり墓地に来ると厳粛な気持ちになってしまいます。
 で、左の写真はやっぱり撮影してしまう狛犬(笑)

 あたりには線香の匂いが満ちていましたが、さらに昇ったところの飯盛山中腹あたりには、白虎隊のみならず先祖代々の地元の家々のお墓がありました。

 中には白虎隊の精神に共感し、ここへ葬られることを希望した外国人の墓などもありましたが、素朴な疑問として、この墓地の菩提寺はどこなんでしょうか。なんて。既述したように正宗寺は廃寺となっていますし。


白虎隊士像 自刃の地飯盛山から鶴ヶ城を遠望す 最後となりましたが、飯盛山の中腹まで登ると、白虎隊自刃の地があります。
 そこに鶴ヶ城を遠望する隊士の像があるわけですが、この視線の先を辿ると鶴ヶ城が望める、という仕掛けになっています。

 右の写真に、いたずら書きで鶴ヶ城を示しておいたのですが、お分かりになるでしょうか? 鶴ヶ城の姿があまりに遠く小さいことに、「おいおい、ちょっと待てよ」と思わずにはいられなかったのですが。
 確かに当時には周囲に高い建造物があるわけでもなく、鶴ヶ城が小山のように際立って見えたことは想像に難くはないのですが。

 昔の人って、目が良かったのね(笑)



 というわけで、またまた続く。